仙厓義梵 禅画? 1

江戸時代、博多の古刹・聖福寺(しょうふくじ)の第123世住職、仙厓 義梵(せんがい ぎぼん)が描いたユニークでユーモラスな禅画をご紹介します。

仙厓義梵。1750年、美濃国武儀郡で生まれ、11歳の頃清泰寺で臨済宗の僧となった。19歳になり行脚の後に月船禅彗の門下に入る。32歳で印可を受け再び行脚の旅に出る。39歳より博多の聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる。住持を23年務め、一応の引退となる。88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す。

本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている。仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかった。83歳の時、庭に「絶筆の碑」を建て断筆宣言をしたが結局やめられず、没年まで作品は残っている。

昭和初期に「仙厓ブーム」ともいえるほど仙厓の研究熱が高まった時期があり、多くの作品が各地から発見され、逸話や論説が乱立した。仙厓の絵のコレクターとして出光佐三が知られ、そのコレクションは東京の出光美術館に収蔵されている。

仙厓はその奔放な生き方をもって知られており、狂歌も多く詠んだ。有名なものとしては、美濃国において新任の家老が悪政を行ったことに対して「よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう」という狂歌を詠んだ。後に美濃国を追放された際には美濃国と蓑を掛詞とし「から傘を広げてみれば天が下 たとえ降るとも蓑は頼まじ」とうたった。

また、絵を依頼に来る者が後を絶たないことについても、「うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに紙おいてゆく」と誰もが来ては紙を置いていくことを自分の家を便所に擬えた自虐的な狂歌を残している。

辞世の言葉は「死にとうない」だったという逸話がある。ただし、同様の逸話は一休宗純にもある。

「和尚と山芋」という仙厓が登場する昔話が伝わる。

金儲けに勤しむ商人に授けた誡めとされる「おごるなよ 月の丸さも ただ一夜」 の句が伝わる。

Wikipediaより




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